徒然なるままに坂口友英|元イタリアンシェフの挑戦!

坂口友英の毎日の挑戦!と意気込んでおりましたが、ゆるーりとした生活を思うままに書き綴ります。元シェフらしく、毎日の料理や食事などが多いです。

寒くて家の中にずっといると思想にふけってしまう

最近寒いですね、坂口友英です。

テレビをみていると仕事に対する考え方を改めて考えさせるようなメッセージ性の強いものが多い気がする。
例えば、某缶コーヒーのCMで
「この世界は誰かの仕事でできている」とか。
ニュースでライフワークバランスが大事であるため、残業を減らせだとか。
現代の仕事のあり方についてみんなが悩んでいるから、そのようなメッセージ性の強い映像が流されているのだろうか。
もしかすると、ただ自分が仕事について考えることが多くなったから、そのような映像が目に入りやすくなっているのかもしれない。
人間は見たいものだけを見る生物だなとつくづく感じる。
きっと誰しもが同じ様な経験があるのではないか?
例えば、携帯を新しくした、または新しくしたいと考えて機種について悩んでいる時。
他の人が使っている携帯に目が自然といってしまうという経験はないだろうか。

また、ある男の人は、子供が出来た瞬間から普段気にしなかった子供用の番組や服、おもちゃまたはベビーカーなど、今まで何も気にしていなかったものに注意がいくかもしれない。

ライフワークバランスという言葉自体には少し違和感はある。
確かに、自分の家庭を犠牲にしてまで働かされるということは良くないことだとは思うが、仕事も人生の一部という原則を忘れている気がする。

私の場合は、元コックなので仕事で料理を1日中作っていた。
もちろん、家に帰れば自分のために料理を作った。
では、この料理を作るという工程は一緒なのに何が仕事で、何が人生なのだろう。
生まれてきた意味について考えると言ったほど、大それたことではないが、私が行うこと全ては人生の一部なのだ。
なので、仕事と人生に区切りはないはずである。仕事であり、人生そのものなのだから。
世間の中では「仕事=嫌だけどやらされているもの」という考え方がきっとあるのだろう。
そうでなければ、きっちり境界線をつけて分けた方がいいよねっていう考えは生まれないはずだ。

こんなことで悩むのは人間ぐらいなのだろう。
蟻や蜂などは、働き蟻・働き蜂のように言われるほど女王様との違いが生じているが、きっとそんなことで悩んではいないだろう。
もしもそんなことで悩む蟻や蜂がいたら、人間同様に組合などを形成して、権利の主張などをしているかもしてない。
人間はいろいろなことを考えることが出来るからこそ、悩みも多い。
母親の育児疲れなどは、卵を産んだらあとは放置するだけの魚類には無縁の話。
また、介護疲れなども問題になるが、野生の動物たちはある程度成長すると子は自立し、親とずっと一緒にいることはないので無縁の話。
でも、だからこそ人間は面白いのだと思う。
鳥のように、全てを忘れて大空を自由に飛びたいと言った友人もいたが、それはきっと人間としての楽しみ方にまだ気づいていないだけなのだ。

お餅が出る喫茶店がないのは何故だろう

2018年もよろしくお願いいたします。

坂口友英です。

 

年越しシーズンで思ったことだが、年末にもなると年越しそばが多くの外食店にて食べられる。

これで一年を新しく過ごせると思いがちだが、元旦になったらお店は閉まっているし、なかなか外食をしたくても出来ないことがある。

突然だが、何故喫茶店に行ってもお餅がないのだろうか不思議に思う。
喫茶店でよく出るモーニングは食パンとサラダ、余分に何かついたとしても卵。

喫茶店によって洋食だけにはこだわらず、おにぎりがある喫茶店もある。

元旦が経営していない喫茶店が多いのは分かるが、お正月の一番最初に経営しているときにですら、お雑煮もおしるこがないのは少し残念に思う。

喫茶店は確かに作り置きではなくその場で作るから出来ないこともないと思う。

餅を煮る時間もあまりかからないし、お雑煮もおしるこも時間かからなくて簡単に出来るのではと。


おしるこをサービスしてくれるところはどこに行っても殆どないし、自分で作るしか方法がない。

元シェフなら何でも作れて困ることはないだろうと思いがちだが、何でも作れるのでときには人に作ってもらいたいと思うことがあるものだ。

誰かの味にこだわりたいし、作ってもらいたいという思いから喫茶店をよく行くようになった。

ぼく自身が作った料理よりこうやっていつも座ってひとときを楽しむ生活が楽しいと思って。

 

1人で妄想の正月旅行をしてみた

こんにちは坂口友英です。

ぼくは妄想の中で日本旅行をするのが好きだ。
なぜならば、妄想の中ならば誰にも邪魔されず、行きたい所に自由に行けて楽しみたい事を自由に楽しめるからだ。

妄想旅行はもちろんやり方がある。ただ、ここに行きたいだと想像がしにくいのだ。

準備する物はパソコン。やり方は行きたい場所の情報はまずネットで調べる。

その時に重要なのは綺麗な景色を沢山沢山見る事だ。そうすれば想像中の一人旅妄想も鮮やかになる。

もちろん動画だとなお良し、自分自身の頭の中でその土地の事を想像出来る状態迄持っていくのが大切である。

正月に家に一人でゴロゴロしてもしょうがないし、でも、何処かに実際で出掛けるとするとお金がかかるし寂しく感じるので妄想旅に出る事にした。

やはりこの季節は寒いって事で温泉があって心から温まれる所を選ぶ事にした。決めた行き先は鬼怒川である。

元々実際に行きたい所ではあるが、中々手が出せないである。

寂しい貧乏な独り身だが、負けずに妄想して楽しもうと思う。
まずパソコンで調べた所は龍王峡だ。この季節雪が少しあり、綺麗だと調べた事があるので画像を検索してみた。

確かに雪があり、枯れ木と雪のコントラストが寂しく感じさせるが綺麗である。

色んな写真を見ていると気が付いた。ここの水は緑色に見える。

それだけ綺麗なのかと考えたので、どんな魚がいるのだろうか、沢山の鳥とかも来るのかとか考える。
妄想1人旅ではその土地の名産も調べる事も大切だ。出来るならその土地で食べられている物作ってみるものいい。

材料とかは仕方ないけど。意外と近い料理が出来るのではないかとぼくは思ってている。

何故ならば、意外とその土地だけしか無い料理は少ないからだ。調べたら、ハンバーグやピザや温泉まんじゅうはあるが、家でも食材にこだわらなければ十分おいしい料理が出来ると思う。その土地の写真を見ながら名物料理を食べるのも意外と楽しいものだ。ぼくはその土地に行って実際に食べた事がないから全て想像でしかない。でも、きっと美味しいから自分の中の美味しいを想像して普通の料理を食べる。
温泉も、自分の家のお風呂に温泉の元の入浴剤を入れて楽しもう。この温泉の元が本物と一緒かどうかは本当に行った事の無いぼくにとっては、この入浴剤が温泉なのだから。
本当に旅行に行った事のないぼくは旅行の楽しい所だけ切り取れて面倒な部分を捨てる事が出来る。面倒な移動とかは頭の中で想像しなくていいのだ。
初めて聞く人は寂しい人にしか感じないと思うが、実際にやってみると楽しいと思う。

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寒波が襲ってきた日はこれに限る

こんにちは、坂口友英です。

どうも地球温暖化とは地球全体が暖かい日になるというわけではないらしい。
先日は沖縄でも雪が降っただのロシアでは大寒波の中徒歩で帰宅した若者が亡くなっただのと、結局冬は寒いのかよとツッコミを入れたくなる。
そんな日は温もりを求めるのが人間というものだが、歳をとると色々肥えるというか、若い頃なら安くてもインスタントでも問題なかったのに、今はそんなものでは調子が悪くなる始末だ。まるで久しぶりに運動したら筋肉痛になるかのように。


結局手間とお金をかけるわけだが、何しろ諸々が肥えていれば目も肥えているわけで「とてもお買得」だの「安い値段の割には」では買う気にもなれない。

車で行ってもいいが、こちらが北国育ちで仮に吹雪やブラックアイスバーンに慣れていても、慣れないドライバーがこちらに突っ込んでくるリスクを考えて渋々電車で移動する。
電車にも「男性専用車両」を作ってもらいたいくらいだ。

こう寒いとみんなが着膨れていて、触れたくなくても袖や裾が当たるのは避けられない。

とても触れる気にもなれない婦女子から「痴漢!」などと叫ばれようものならと冷や汗が止まらない。

これだけでも十分変人だ。婦女子よ、ここに寒いのに汗をかく変人がいるぞ、避けるが良い、車両を変えるが良い。

無事に電車を降り、目的の場所へ。高級ですけど何か?と言いたげな佇まいの建物に、庶民よりお目が高いのよと言いたげな客層、いらっしゃいませと笑顔で迎えつつも「庶民以外は」と枕詞が付きそうな口ぶりの店員たちを横目に、目的の場所へ向かう。

ここはいわば「高級会員制クラブ」だ。どんな嬢でも豪華だけど落ち着いた内装と最低限の照明なかにうやうやしく鎮座させれば、提示された価格を湯水の如く差し出すのがステイタスなのだ。

「花束」に必要な花卉を揃え、また汗をかきながら電車で帰る。
早速「花束」を作る。大本命に捧げる大切な花束である。丁寧に解れないように束ねる。手作りだからいい。

気持ちを込めれば込めるだけ伝わるのがいい。丁寧に揃え、順番通りにした。

あとはこの「花束」をうやうやしく捧げれば良い。
そう、前日から仕込んだコンソメスープの中にジャガイモ玉ねぎ人参、そしてとっておきのソーセージだ。さすがはボク!お目が高いぞボク!このぷりぷりで芳醇な香りのソーセージに芸術的価値な切れ込みを入れていると、まるでソーセージが涙を流して喜んでいるかのようだ。

そんなソーセージのためにボクはこの「花束」を捧げるのだ。

そうだブーケガルニだ!さあボクのこの想いを受け止めておくれ。
鍋に全ての材料を入れて、はらはらと舞う雪を眺めて完成を待とう。

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野菜を作っている生産者の顔を考える

こんにちは、坂口友英です。

かつては食べ物を扱う仕事についていたということもあり、僕は食材に関しては少し敏感になるところがある。
食事はできるだけ自炊をするように努めているため、日々の買い出しは日課ともいえるが、買い物に行くときにはスーパーよりも八百屋に行きがちだ。
僕は八百屋の店主とのコミュニケーションも含めて買い物だと思っている節もあり、一度顔見知りになってしまうとたまにスーパーに浮気したときの後ろめたさも少しある。
スーパーよりも八百屋の方が食材を大事に扱っている、と言うと偏見かもしれないが食材を選んでいるときに八百屋の店主と話していると、ふと店主の顔を通して生産者の顔が浮かんでくることがあるのだ。
何気なくつかんだ玉ねぎには、それを作っている人がこの世の中に確実に存在している。
当たり前のことなのだが、店主と話していると手の中にある玉ねぎの感触から人の形が浮かび、当たり前すぎてつい忘れてしまいそうな生産者の存在を実感させてくれるのだ。
近頃は生産者の写真を野菜とともに貼りだして、誰が作っているのか分かるようにしているスーパーもある。
近所のスーパーでもそのような売り場を何度か目にしたことがあるが、確かに誰が作っているのか分かった方が安心して買い物ができる気持ちも分かるし、食材に対するあるがたみも増すことだろう。
しかし逆に言ってしまえばそうまでしないと生産者の存在を意識することがなく、身の回りに食べ物があふれていることや、スーパーに食材が並んでいることが当たり前になっているということなのかもしれない。
安い方がいいに決まっている。それは想像力の欠如か。
スーパーの野菜売り場に貼られている農家の人の写真はどれもみな幸せそうに笑っている写真ばかりだ。
安く買えることは消費者にとってはありがたいが、生産者にとっては売上にならないのではないかとも考えてしまう。
そう思ったきっかけはスーパーやコンビニで、もやしが激安で販売されているのを見たときだった。
あまりの安さに僕も手に取ってしまいそうになったが、よく見るとそのもやしを作った生産者の写真だけはどこにも貼られていなかった。
考えてしまった。このもやしにも生産者の写真があったなら、その生産者は果たして笑顔で写真に写っているのだろうか。
食材を買う前に作った人のことをほんの少し意識してみる。
それだけで人間の暮らしは、自分だけでなく他の人も含めた人間たちの暮らしは豊かになるのかもしれない。
野菜の入った袋をぶら下げながらそんなことを考えて、日が暮れた商店街を歩いていた。

街がめかしこんでゆく。冬の足音が聞こえる

こんばんは、坂口友英です。

葉物の野菜が高騰してきた。
スーパーの野菜売り場と八百屋を見てそう思ってしまうのは、もうこの身に染みついた癖のようなものだ。

日が経つに連れて寒くなって来た。太陽はすぐに沈んでしまう。夜が長い。
街並みはイルミネーションに彩られはじめた。
明日から12月だ。
寒さを我慢していたがそろそろ限界だ。
帰ったらストーブを用意しよう。

家路を急いでいたら
遠くの山が色づいて見えた。
木々が枯れていく前に一際美しく化粧をする。
その様子に思わず寒さを忘れて釘付けになった。
足を止めてしばらく見とれていたら頭上から松ぼっくりが落ちてきた。びっくりした。
どうやら松の木の下にいたらしい。

足元に転がった松ぼっくりを手にしたらクリスマスツリーを思い出した。
そういえばクリスマスシーズンはケーキの予約ばかりだった。ほとんどなかったけれど、受け取りの日にキャンセルが出ることがあった。
食べてもらえないことは悲しかったが、お客様を責めても仕方がない。その日来店されたお客様へのサービスとしてケーキを振る舞ったことがある。
その時は喜ばれてシェフでいて良かったと思った。

昔のことばかり考えてしまうな。良い思い出ばかりだったけれどもそろそろ前を向かなくては。

今日は紅葉が綺麗だったから
イチョウ...切りの大根と
もみじ...おろしは人参か。
豚汁にしよう。
身体が温まる。

黄金の都、平泉にて。ぼくの葛藤と秋の景色。

こんばんは、坂口友英です。

 

つい先日、東北新幹線に乗りぼくは岩手県の一ノ関という駅で降りた。

そこから更に電車を乗り換えてしばらく。

ついたのは平泉町

そこでぼくのお目当は中尊寺だ。世界遺産に登録されたのは何年前だったか。一度来て見たいと思っていた。

中尊寺まではバスで移動するつもりだった。
しかしバス停でバスの時刻表を見て飛び上がってしまった。驚くほど本数がない。
美味しいご飯のお店でもあればそこで時間を潰そうかと思ったが、ぼくはタクシーで向かうことにした。
ここまでがかなりの長旅だったせいか、お店に入ってしまえば満足して帰ってしまいたくなるかもしれない。
せっかく時間を作って東北まで来たのだし、先に観光名所を楽しむことを選んだ。
中尊寺というのは山の中にあるお寺らしい。
本殿に向かいながら長い長い坂道を一歩ずつ進んで行く。これがかなり険しい。

靴に結びつける滑り止めが貸し出されるほどだ。
でもぼくはなぜか強がってしまった。滑り止めが入っているカゴを横目に、いつものスニーカーで坂を登り始めた。
坂は大変だったが景色は素晴らしかった。
紅葉だ。赤い葉が360度の景色を彩っている。
いいな、とぽつりと呟いた。
すると強い風が吹いた。この町ではすでに冬が目の前まで来ているんだなあ。
坂の途中で弁慶堂というものに出会った。
弁慶、という文字を見てここが源義経ゆかりの地であることを思い出した。
そうだ、歴史の教科書のヒーロー。勉強したのは小学校だったか中学校だったか、懐かしいな。

そのまま登り進めて本殿の手前、売店がある。
お守りがたくさん並ぶ中でぼくの目に止まったのは、甘酒。
甘酒、確かにもう冬の空気だ。この気温の中、甘酒を体に注ぎ込めばどれほど幸せだろう…
とそこで、ぼくは先ほどの決意を思い出す。
先にお参りをするべきだな、うん。
この楽しみは帰りにここを下るまで取っておこう。

ぼくはそのまま本殿に向かった。
時期が時期だからか観光客はあまり多くない。寧ろ、ぼく以外は地元の人かもしれない。

そんな彼らに習いながら、お参りの前に炭で線香に火をつけ、煙を浴びる。

この煙たさ、キッチンで知っているな、と思って苦笑した。神様、ごめんなさい。
お参りも済ませてぼくはもう少し先に進んだ。
本殿はここだが金色堂はもっと奥らしい。
しばらく進んでようやく金色堂にたどり着いた。(何度も甘酒に惹かれたのは内緒だ。)

ぼくが金色堂に入った時は誰もいなかった。実際に金色堂の目の前に立つ。

その荘厳さといったら、言葉にできないほどのものだった。かの奥州藤原氏達がここに眠っている

…歴史というものはすごいと改めて感じた。そしてぼくは今、この黄金の建物が見える景色を独り占めしている。

何と贅沢なことだろう。だけど、それを1人で見ることに少し寂しさもあった。

誰かと分かち合いたい素晴らしさだったのだ。

 

こんなにセンチメンタルになってしまうのは秋のせいか。
金色堂を出てぼくは気付いてしまった。
この中にレストランがあるらしい。レストランか、料亭か。
かつての職業病なのか、やっぱりそういうところは気になってしまう。

特に地方のものっていうのはその地域の個性が出るし。
目的を果たしたぼくは、念願の食にありつくことにしたのだった。